6.0すぐ監禁ごっこするユシュ主♂
首筋に冷たい雫が落ちて、身震いした。硬いベッドの上、抱えていた膝を崩して伸びをすると、足首を縛める枷が耳障りな金属音を立てる。鉄格子越しに見る薄暗い地下空間は閑散としていて見張りの姿すら滅多になく、砂漠の都とは思えない冷たい空気と湿気に満ちていた。万策尽き、やることもないので再び丸くなって耳だけで他の囚人の気配を探る。微かに聞こえる生活音やたまの咳払い以外は静かなものだが、人の気配だけでも大方の孤独は紛れた。
神になるということがどういうことなのか、実は未だにピンと来ていない。だがそれを受け入れてしまえば、長い旅路の途中縁を繋いできた人たちとはこれっきり、今生の別れとなることくらいはわかる。そこに思い至った時にふと、最後に見ておきたい顔が浮かんでファラザードに足を運んだ。本当に、魔が差したとしか言いようがない。
嘘はつきたくなかったから聞かれるままに現状を話して、そういう事情なのでここに来られるのは今夜が最後だと思うと結んだ。すると案外上機嫌に笑ったユシュカが「大魔王サマがとうとう神に出世するか。祝杯を上げて送り出してやらねばならんな」とグラスを差し出してきたのですっかり油断してしまった。飲み物に何かを混ぜられたか、乾杯直後に記憶はふつりと途切れ、目が覚めた時には地下牢に放り込まれていたという次第だ。自分は何度似たような過ちを繰り返せば学習するのだろう。
「その枷には強力な弱体化の術を施してある。直近のネシャロットの研究成果だ」
鉄格子の向こうでファラザード王は得意気に片眉を上げてみせたが、絶望的な状況よりも、彼の眼差しの暗さの方が何だか堪えた。
「お前はまだ魔界に必要だ。時間をやるからゆっくり考えるといい」
いっそ慈悲深い声音で告げ、置き去りにされてからはや三日。そろそろ痺れを切らした天界の方から捜索隊を差し向けられかねない気もする。
別に三日間無為に過ごした訳ではなく何とかここを抜け出そうと色々抗ってはみたが、足掻けば足掻くだけ枷が擦れることによる無駄な生傷が足首に増えるばかりで、思うように成果は上がらない。
ネシャロットは呪術の腕に益々磨きをかけたようで、魔法の使用はおろか、使用者の魔力を触媒とするアビスジュエルを始めこの状況に有用な道具も軒並み何の反応も示さない。荷物を取り上げられなかったのはユシュカがそれを熟知していたからだろう。
何か手はないか過去の記憶を洗い出しながら、指先で無骨な鎖の冷たさを愉しむ。ここに来てこんな小道具一つで足止めを食うとは思いもしなかった。自分ひとりの力など所詮この程度だ。
聞き覚えのある足音に思考を中断させられた。頼みもしないのに毎日、一日の最後の食事だけは国王自らが運んでくる。メニューこそ他の囚人と相違ない粗末なものだが、初日はその特別待遇を目にした隣の住人から、お前一体何者だ等々ねちねち絡まれて返事に困った。
「出してもらえませんか」
通り一辺倒の挨拶もすっ飛ばしてシンプルに要求だけを突きつければ、魔王はただ静かに笑う。
「ファラザードに骨を埋める覚悟はできたか」
「口約束だけならいくらでも交わせると思いません?」
「信じて開けてやったが最後、反故にして逃げる気か。では何故早々にそれをやらず時間を無駄にした」
「っ……」
ユシュカの言う通りだった。物理的に出ることができないと判断したなら、嘘でもなんでも彼をその気にさせてここを開けてもらう他はなかったのに。何をもたもたしているのだろう俺は。
「迷っているんだろう? 俺が知るお前ならば、寄り道などせず真っ直ぐに目的地に向かっていた筈」
決めつけて、格子戸の前に立った魔王が食事の乗ったトレイを足元に置く。
「話を聞くに、天界での英雄としてのお前の扱いは末席に過ぎない。残りの命を捧げて神になったところでせいぜい永久に補欠扱いか、良くて露払いだろうな」
「それはあなたに都合のいいただの妄想でしょう」
「さて、どうだろうな。……魔界に戻ってこい。悪いようにはしない」
「ここだって危ないのかもしれませんよ。あの人達が言うことが本当なら、ルティアナを失ったせいで世界の均衡が危ぶまれると」
ユシュカが殴りつけた鉄格子が派手な音を立てて揺れた。ビリビリとした余韻が辺りの静けさを一層強調する。
「その責任を、どうしてお前が負わねばならない」
違う、そんな話はしていない。
そもそも責任を取り切れる力なんて持ってない。この身体が行使できる力、自分の両手が守りきれる範囲、その限界をあっさり越えて数知れない命が散っていったではないか。
だが、それでも。
この小さな力が、災厄に打ち勝つ芽と、そのきっかけとなるならば。
身の内に疼く衝動は潰えない。灯は、消えない。
「──それでも、俺は行きます」
きつく重圧をかけてくるユシュカの視線を正面から受ける。
「……交渉決裂だな」
匙を投げて踵を返す魔王に気取られないよう、その背を見送った。彼の姿が完全に見えなくなった後、荷物を引き寄せ、中を探る。
嘘はつきたくなかったから聞かれるままに現状を話して、そういう事情なのでここに来られるのは今夜が最後だと思うと結んだ。すると案外上機嫌に笑ったユシュカが「大魔王サマがとうとう神に出世するか。祝杯を上げて送り出してやらねばならんな」とグラスを差し出してきたのですっかり油断してしまった。飲み物に何かを混ぜられたか、乾杯直後に記憶はふつりと途切れ、目が覚めた時には地下牢に放り込まれていたという次第だ。自分は何度似たような過ちを繰り返せば学習するのだろう。
「その枷には強力な弱体化の術を施してある。直近のネシャロットの研究成果だ」
鉄格子の向こうでファラザード王は得意気に片眉を上げてみせたが、絶望的な状況よりも、彼の眼差しの暗さの方が何だか堪えた。
「お前はまだ魔界に必要だ。時間をやるからゆっくり考えるといい」
いっそ慈悲深い声音で告げ、置き去りにされてからはや三日。そろそろ痺れを切らした天界の方から捜索隊を差し向けられかねない気もする。
別に三日間無為に過ごした訳ではなく何とかここを抜け出そうと色々抗ってはみたが、足掻けば足掻くだけ枷が擦れることによる無駄な生傷が足首に増えるばかりで、思うように成果は上がらない。
ネシャロットは呪術の腕に益々磨きをかけたようで、魔法の使用はおろか、使用者の魔力を触媒とするアビスジュエルを始めこの状況に有用な道具も軒並み何の反応も示さない。荷物を取り上げられなかったのはユシュカがそれを熟知していたからだろう。
何か手はないか過去の記憶を洗い出しながら、指先で無骨な鎖の冷たさを愉しむ。ここに来てこんな小道具一つで足止めを食うとは思いもしなかった。自分ひとりの力など所詮この程度だ。
聞き覚えのある足音に思考を中断させられた。頼みもしないのに毎日、一日の最後の食事だけは国王自らが運んでくる。メニューこそ他の囚人と相違ない粗末なものだが、初日はその特別待遇を目にした隣の住人から、お前一体何者だ等々ねちねち絡まれて返事に困った。
「出してもらえませんか」
通り一辺倒の挨拶もすっ飛ばしてシンプルに要求だけを突きつければ、魔王はただ静かに笑う。
「ファラザードに骨を埋める覚悟はできたか」
「口約束だけならいくらでも交わせると思いません?」
「信じて開けてやったが最後、反故にして逃げる気か。では何故早々にそれをやらず時間を無駄にした」
「っ……」
ユシュカの言う通りだった。物理的に出ることができないと判断したなら、嘘でもなんでも彼をその気にさせてここを開けてもらう他はなかったのに。何をもたもたしているのだろう俺は。
「迷っているんだろう? 俺が知るお前ならば、寄り道などせず真っ直ぐに目的地に向かっていた筈」
決めつけて、格子戸の前に立った魔王が食事の乗ったトレイを足元に置く。
「話を聞くに、天界での英雄としてのお前の扱いは末席に過ぎない。残りの命を捧げて神になったところでせいぜい永久に補欠扱いか、良くて露払いだろうな」
「それはあなたに都合のいいただの妄想でしょう」
「さて、どうだろうな。……魔界に戻ってこい。悪いようにはしない」
「ここだって危ないのかもしれませんよ。あの人達が言うことが本当なら、ルティアナを失ったせいで世界の均衡が危ぶまれると」
ユシュカが殴りつけた鉄格子が派手な音を立てて揺れた。ビリビリとした余韻が辺りの静けさを一層強調する。
「その責任を、どうしてお前が負わねばならない」
違う、そんな話はしていない。
そもそも責任を取り切れる力なんて持ってない。この身体が行使できる力、自分の両手が守りきれる範囲、その限界をあっさり越えて数知れない命が散っていったではないか。
だが、それでも。
この小さな力が、災厄に打ち勝つ芽と、そのきっかけとなるならば。
身の内に疼く衝動は潰えない。灯は、消えない。
「──それでも、俺は行きます」
きつく重圧をかけてくるユシュカの視線を正面から受ける。
「……交渉決裂だな」
匙を投げて踵を返す魔王に気取られないよう、その背を見送った。彼の姿が完全に見えなくなった後、荷物を引き寄せ、中を探る。
小さく甲高い音を立てて錠が外れた。
「開い、た……」
慣れぬ仕事に震える手で枷を外し、アビスジュエルを手に取る。石が自分の魔力に呼応して淡く光るのを確認してから、牢の壁にもたれ安堵の息を吐いた。
開けられないものはないと豪語していたメギストリスのカギ師から、ある鍵を譲り受けた際、ついでだとその他の簡単な鍵を開ける方法と道具も伝授してもらっていたのを思い出したのだった。高度な呪術がかけられている反面、足枷の物理的な作りは思いの外簡素で、素人仕事でもぎりぎり何とかなった。やっと約束を果たせる。
ユシュカとの会話の中、力ずくで現状を打破することばかり考えていた自分に気付いてからその後の展開は早かった。人のことを全然言えないと軽く反省だけはしておく。
「行くのかい?」
息を止める。詮索がうるさい隣の房の声だった。だが、今なら人を呼ばれても、呼ばれた者が駆けつけるよりこちらがアビスジュエルを使う方がずっと早い。
「ええ」
「俺考えたんだけどさ、お前さん、……ファラザード王のオンナだろ?」
噎せた。得意げに返事を待っているであろう隣人の顔を、声のみの情報から推測する。派手な痴話喧嘩とでも思われているのか。腹が立ったからと言って人を地下牢に放り込む伴侶などこちらから願い下げだが。
「さあ、どうでしょうね」
ムキになって否定するのも怪しいので適当に流して、今度こそ、その力を行使するために血の色をした石へ魔力を篭める。
「さよなら」
別れの挨拶は隣人にというより、ここにはいないあの人へ届くように祈り、告げた。
「開い、た……」
慣れぬ仕事に震える手で枷を外し、アビスジュエルを手に取る。石が自分の魔力に呼応して淡く光るのを確認してから、牢の壁にもたれ安堵の息を吐いた。
開けられないものはないと豪語していたメギストリスのカギ師から、ある鍵を譲り受けた際、ついでだとその他の簡単な鍵を開ける方法と道具も伝授してもらっていたのを思い出したのだった。高度な呪術がかけられている反面、足枷の物理的な作りは思いの外簡素で、素人仕事でもぎりぎり何とかなった。やっと約束を果たせる。
ユシュカとの会話の中、力ずくで現状を打破することばかり考えていた自分に気付いてからその後の展開は早かった。人のことを全然言えないと軽く反省だけはしておく。
「行くのかい?」
息を止める。詮索がうるさい隣の房の声だった。だが、今なら人を呼ばれても、呼ばれた者が駆けつけるよりこちらがアビスジュエルを使う方がずっと早い。
「ええ」
「俺考えたんだけどさ、お前さん、……ファラザード王のオンナだろ?」
噎せた。得意げに返事を待っているであろう隣人の顔を、声のみの情報から推測する。派手な痴話喧嘩とでも思われているのか。腹が立ったからと言って人を地下牢に放り込む伴侶などこちらから願い下げだが。
「さあ、どうでしょうね」
ムキになって否定するのも怪しいので適当に流して、今度こそ、その力を行使するために血の色をした石へ魔力を篭める。
「さよなら」
別れの挨拶は隣人にというより、ここにはいないあの人へ届くように祈り、告げた。
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