5.4後

 まただ。
 組み敷いている己を通り越してどこか遠くへいってしまっている視線を取り戻すために、わざと爪を立てて肉の薄い頬を抓った。
「いっ!」
 やっと合った目にみるみる水分の薄い膜が張って、力加減を間違えたかと薄ら赤くなった部分を撫でてみる。ユシュカ、と溜息に乗せて名を呼ばれたがどうせお小言なので無視した。
「いい加減自分の馬鹿力を自覚してください」
「どこを見ていた」
「どこって……天井を」
 瞬きを繰り返しどうにか涙を引っ込めようと努力しながら、元しもべの現大魔王サマは目を逸らした。下手くそな嘘に付き合ってやる義理はない。
「こんなときぐらい俺のことだけ考えてろ」
 剥き出しの肩に歯を当て右手で脇腹を撫で上げると、ごくんと唾液を飲む音が聞こえて少し笑う。こいつの身体のことはそこそこ知っているが、心の方は未だ如何ともしがたい。
「こんなときにあなたのことだけ考えていられるようなひととなりだったら、大魔王なんかやってません」
「全く、ああ言えばこう言う」
 その口塞いでやろうか。
「でも」
 こちらが動く前に発せられた二の句に、少しだけ猶予を与えてみる。
「できるだけ努力します」
 ……いや努力でなんとかする類のことじゃないだろう。何を言っているんだお前は。馬鹿馬鹿しくなって予定通り塞いでやった口内はやや乾いていて丁寧に濡らしてやれば、ん、と気持ちよさそうな鼻息を漏らす。散々嬲り倒して気が済んだから開放してやったのに、もう一度名を呼ばれた。今度は最中の喘ぎ声と変わらない、意味のない音、だ。求めに応じて再度唇を落としながら、女神ルティアナが復活し、そして消えたあの日以来少しばかり変わった関係を思う。こいつから誘いをかけられるなんて以前だったら万に一つも考えられない事態だった。決して喜ばしい傾向などではない。ただお互いの神経が擦り切れてしまわないように、現実から逃避する僅かな時間を共有しているにすぎない。無力感に苛まれている暇はないのだから、これが終わればまた大魔王サマは真っ直ぐに前を向いてどうにか世界の窮地を脱する手段を探すため出立するのだろう。無論その件については俺も手を尽くすが。
「あなたこそ、こんなときくらい俺のことだけ考えてたらどうですか」
「お前に言われずとも考えていたが?」
 唇が離れた途端言い放たれた意趣返しめいた問いかけに間髪入れず答えれば、面白くなさそうな顔でぷいと横を向く。俺に一泡吹かそうなんて百年早い。ふと、やらせろいやだの不毛で屈託のないやり取りをしていた頃が思い出されて、ほんの数ヶ月ほど前の話なのにひどく懐かしく思う。

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