5.4途中
「放っておくと痕になると忠告してやったはずだが」
枕元の薄明かりが、付けた当時の歯形そのままに色素の沈着した肩口を浮き上がらせている。特に犬歯が食い込んだ箇所は未だ血の色を残してぽつんと赤黒く変色していた。加害者が悔いるのも妙な話だが、こいつの自らを省みない性質は十分にわかっていたのだからもう少し気にかけてやるべきだった。
「別にいいでしょう、死ぬわけじゃなし」
投げかけられた非難に当人はさしたる興味も示さず、責める視線は何なく受け止められた。まるで他人事だ。
白日の下に晒す機会はなくとも褥を共にしていれば、嫌でもこいつの身体に残る夥しい数の傷跡に触れることになる。中にはよく命を落とさなかったものだと首を傾げるほど酷いものもあり、どんな修羅場をくぐり抜けてきたのかふと気になることもある。そうは言っても、傷に触られた時にこいつが見せる気まずいような自省の淵に沈み込むような複雑な表情に、敢えて踏み込むほどの興味もなかった。きっと今はまだその時ではないのだ。最初に気付いた際に、痛くはないのかと事務的に確認したきりで、以降二人ともこの件について口にすることはなかった。無意識に致命傷になり損ねた部分へ這わせていたこちらの指を咎めるようにそっと押さえられる。
「……始めのうちは気を付けてたんです。そのうち間に合わなくなることが増えて。生きてさえいればいいかと。悪いとは思っているんですが」
始めとはどの時点の話で、悪い、とは誰に対してなのか。ぼんやりした独白には必要な情報があちこち欠けている。
「己が身すら大事にできないやつが命だけは大事にできるとは思えんな」
「それはそれで天命じゃないですか」
「お前イルーシャのことも天命であればやむを得ないと納得できるのか?」
長い沈黙が落ちた。触れ合った指先から温度が失われていくのが伝わる。最近のこいつとのやり取りは、自分の喉元に刃を突きつけるような羽目になることが多い。今だってそうだ。俺の命を救うのがナジーンの天命だったとしたら、それを決めた神だかなんだかを許すことはできそうにない。その一方で、生かされた俺が果たすべき使命を為しえなければ、自らの命をなげうつことを選んだあいつの意志を無駄にしてしまうことも理解している。だがそれは結局ナジーンの死を運命をして受け入れているという証左に他ならないのではないか。堂々巡りだ。
「……俺は、まだ諦めてません」
指針も具体的な対策もない、絞り出したような返答は多分に迷いを孕んでいて、どこかですっきりと腑に落ちる回答を期待していた自分が失望する感と共に、こいつもまた思い悩みながらどうにか歩いていることへの安堵を覚えて、どちらにしてもどうしようもない甘えた思考だと自らを断罪する。
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