ご主人様としもべちゃん

 月明かりが届かない。
 鬱蒼と繁る森の奥深くまでは儚い月光は落ちず、絶え間なく小枝の爆ぜる目の前の炎だけが視界の頼りだった。森に入ってからはよく乾いた枝の入手に困ることはなくなったが、辺り一面身を潜めるのに最適な木々の合間だらけなので、魔物の不意打ちにだけは一層気を使わなければならない。慣れぬ世界を旅するためにずっと気を張っているせいか、単に考えることを放棄したのか、次期大魔王選定のための手助けをしている実感はあまりなかった。
 ただ突然現れた自分のあるじを名乗る男に連れ回され体良くこき使われているだけ。それだけだったらどんなにいいだろうと思う。次の大魔王が出れば、まず間違いなく祖国は再び戦火に見舞われる。罪のない人々が故郷を焼かれ、命さえも奪われるあの日の悪夢が繰り返される。
 音を立てないように立ち上がり、眠る男に近付く。懐のナイフの冷たい刃をその首筋に当てても反応らしい反応は返ってこなかった。魔王の使いでしかない暫定あるじの息の根を止めても何の解決にもならないことはわかりきっている。従順なふりをしておいて、この男の主人の寝首を掻く方がずっと賢明だろう。ただ、それができるかどうかだと自答する。こちらの命を奪おうと襲いくる敵の対処ならば幾度となくこなしてきたが、現時点では危害を加えてくる様子のない相手の命を能動的に奪った経験はなかった。刃を握った手が震えそうになって慌てて引っ込める。やはり今の自分には荷が重いかもしれない。
 それならば。
 逆手に握り直したナイフの切っ先を今度は自らの喉元に向ける。今となってはアストルティアを脅かすだけの存在だ。自分一人消えたところで大きな流れが変わるとは思えないが、時間稼ぎくらいにはなるだろう。何より、何の自覚もなく祖国に危機をもたらす状況に流されている無力な己を力ずくでも止めなければならなかった。人の命をこの手にかけることに比べれば、既に二度も経験しているのだから死ぬことなんて今更どうということもない。
 目を閉じて息を止め、ぐっと指先に力を込めたところで不意に手首を掴まれた。見開いた目に飛び込んできたのは、金の双眸。せっかく覚悟を決めたところだったのに余計なことを。
「は、なせっ……!」
 僅かな逡巡が勝敗を分けることはわかっていたのに、次の瞬間には百獣の王の獰猛さを持つ体躯により、あえなく両手を地面へ縫い止められた。弾き飛ばされたナイフがほんの数歩先、つまりこの状況では絶望的な距離に落ちる。刹那の揉み合いの最中、ほんの一矢報いた証である彼の頬に走った傷から、見上げるこちらの顔へと温い血がしたたる。咎める視線の温度はどちらかといえば、低かった。
「誰が死んでいいと言った」
「……祖国に仇なすくらいなら、死を選びます」
「ここまでのこのこついてきて、今更か」
 痛いところを突かれ目を伏せた。押さえつけられている手首に一層の力がこもって骨が軋み、奥歯を噛む。意地でも悲鳴など上げてやるものか。
「見込みがあると思ったから命をかけてやったんだが、俺の目が曇っていたか。故郷を本気で救いたいのなら、俺を誑かした上で魔王に取り入るくらいはやってみせたらどうだ。しもべ風情一人死んだところで何になる」
 魔族に正論で詰められる日が来るとは思わなかった。勇者の盟友と言えども、誰もその事実を知らない魔界でただの異国からの旅人として野垂れ死んでしまえば、きっとこの世界に何の影響も与えることなく消えることができるだろう。逃れがたい甘美な誘惑だ。勇者は、故郷の親友は、俺の生存を信じてくれているのだろうか。変わり果てた姿になった自分を自分とわかってくれるだろうか。そもそも勇者の盟友という立場だからこそ、魔族に身をやつした己は益々存在を許されないのかもしれない。歴代の中でもきっと最悪と言っていい不覚だ。世界にとって、俺という存在は既に害悪でしかない。
「死なせてください」
「駄目だ」
「お願いですから」
 何の交渉かわからなくなってきた。それこそしもべひとり失うことくらい、この男にとっては取るに足りないことだろうに。こちらは取り憑かれた悲観的な妄想から解放されたいだけだ。どうしてささやかなお願いひとつ聞いてくれないんだろう。自分の生き方くらい自分で決めさせてほしい。きつく戒められている手首の関節が痛みを通り越して痺れてきている。
 不意に自分を組み敷く男の表情が奇妙に歪んだ。
「泣くな」
「泣いてません」
 おまけに輪をかけて妙なことを言い出すものだから、それまでの言い合いが一時棚上げになった。戒めていた手が一旦離れ、意外な慎重さをもって頬を撫でる。その指先から血の通った温度が伝わった。
「生きることすら許されないものなど、この世にあってたまるか」
 呆気に取られた。自分が何を言っているのか理解しているだろうか、この男は。
「あなたが今日までに屠ってきた魔物たちは、どうなるんですか」
「何を言ってる。あれは実力差も測れず襲ってきた愚者共の成れの果てだ」
 危うく失念するところだったが、やはり彼も魔族の端くれと言う訳だ。場にそぐわない笑いが込み上げる。
……彼我の主張に、生き方に、一体どれだけの違いがあるというのだろう。襲いくる相手ならば、命を奪っても構わないと躊躇うことすらなくなったのはいつからだっただろう。どうしても、それが思い出せない。
 
 
「いい加減離してもらえません?」
 羽交い締めにされてから、焚き火の燻りすら消えるほどの時間が経っていた。腕の力は一向に弛まない。
「離したら死のうとするだろう」
「今日のところはやめておきますから。明日に響きますし」
 疲れと眠気が来ていて返事が支離滅裂になっているのは否めない。
「我が主は大魔王になってもアストルティアに遠征するつもりは毛頭ない、無駄な戦争をしている間に魔界が滅ぶからな、と言ったらお前は信用するか?」
「それは、まあ、……え?」
 単なる例え話かと流しそうになったのを慌てて聞き返す。
「ファラザードに着いたら、お前自身の目で確かめてみるといい」
 話はまた明日だ、俺はもう寝ると笑みを含ませたままの声で話を打ち切り、ユシュカはあっという間に寝息を立て始めた。寝ている癖に人を羽交い締めにした力だけは変わりなく、思わず舌打ちする。
 魔界は魔界で色々事情があるらしい。どうするかと迷う思考は今ひとつ伸び悩み、暫定あるじと同じく結論を先送りにしたまま程なく瞼の重さに負けた。
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