【R18】夜に捕まる

 堅固な石造りの長い廊下に沿って並ぶ古ぼけた木の扉のどれかが出口に至る道だった筈だ。が、どれがそうであったかという記憶が綺麗に欠落している。
 まあいいか、と手始めに手を掛けた扉の向こうは、懐かしい教会の小部屋に繋がっていた。室内に据え付けられた物入れの引き出しを開け、中身を物色していた旧友が顔を上げる。
「やあおかえりなさい村長、戻ってたんですね」
 こちらを認めたシンイはちょっと驚いた顔をしたものの、すぐに普段と全く変わらない様子で相好を崩した。
「……いえ、」
 返すべき言葉をなくして言い淀む。
「シュキエルから安眠用の枕をお願いされたんですよ、彼女、よく悪夢を見てうなされるそうで」
 どの布がいいかな。話半ばで独り言になりかけている穏やかな声をただ黙って聞く。干しどくけしそうの甘い香りが漂っている。
「彼女の出自を思えば、それも当然でしょうね」
 息を呑んだ。
「エテーネの恨みを一身に受けて、それでも生きていかねばならない。シュキエルは、生まれてきた幸福を享受できているのでしょうか。……あなたは何故彼女を私に任せたのですか? 彼女の世話をする私が、あの日を思い出して苦しみを覚えないと、一体何故そう思えたんですか?」
 シンイの静かな声も、穏やかな表情も、何も変わらない。
 だが、ここは出口ではない。
 
 次の扉の先も、今となっては随分と通い慣れてしまった場所だった。初めて呼ばれた折には、自分の親しんできた世界との間の格差に慄いたものだが。色味の異なる様々な赤と、金を基調とする内装は、豪奢ながらその深い色調により、見る者に決して品を欠くような印象を与えない。片田舎の村出身の自分でもひと目で分かる上質な素材から成る洗練された意匠の調度にも赤が潤沢に使用され、部屋の主の繊細な金糸の巻き毛、青い目をよく引き立てていた。この部屋にあるすべては、彼女の身上に釣り合うよう仕立てられた特注品なのだろう。
「来てくれて嬉しいわ! お茶を飲んでいってくれる時間くらいはあるのでしょう?」
 屈託のない強引さで手を引かれ、あなたはここね、と勧められるままにビロード張りの長椅子に腰掛ける。ちょうど彼女自身休憩のタイミングだったのか、既に猫脚のテーブルには揃いのティーセットが広がっている。湯を注いだ途端に爽やかな花の香が広がる茶葉は、彼女の一番のお気に入りだった。舌に乗せると薄荷の冷たさを残してすっと溶ける儚い砂糖菓子も、お茶の時間の常連だ。どちらも、久しぶりの味だった。
 ……これだけ足繁く通っているのに、何故、久しぶりだと思ったのだろう。何か大事なことを忘れてはいないか。
「今日はね、兄様の命日なの。本当のことを言うと、毎年この日を迎えるのは怖いから、今年はあなたが来てくれて本当に心強いわ」
 砂糖菓子の欠片を口に入れて長い睫毛を伏せ、アンルシアは遠い記憶の底を攫うように少しの間黙り込んだ。舌に残る紅茶の渋みが、今日はいつもより強い気がする。
「……このお茶も、お菓子も少し癖があるでしょう? 幼い頃はそれが苦手だった。でも兄様はこの組み合わせが大好きで、一緒にお茶を飲みながらお話ししていただいている内に、いつの間にか私も大好きになってしまったの」
 菓子を、というより思い出の欠片を味わっている今の彼女には、相槌の必要すらなかった。
「今も、あの日のことを思い出さない日はない。目の前で兄様が殺されようとしていたのに何故私は勇者として目覚めることができなかったのかしら。私の力が足りなかったの? 盟友がそこにいなかったから? あなたは、あの時どこで、何をしていたの?」
 もっと責めてくれて構わないのに、その声は独り言のように虚ろで、どこまでも優しく、哀しい。
 この扉も、出口には繋がっていなかった。
 
 順に開けていった次の扉も、その次の扉も似たようなものだった。大して動いている訳でもないのに疲労感を覚える。ここを開けたら一旦休憩しようと決めてから、次のドアノブに手を掛けた。きい、と立て付けの良くない軋みを上げて開いたドアの先には、これまでとは異なり、地続きの空間が続いていた。通路と同様に石を積んだ壁に四方を囲まれた小さな部屋。ドアの正面にある曇り硝子の窓は、拳ほどの隙間分外界に向けて開かれていた。が、その先の景色は深海のような黒だった。部屋の中央には安楽椅子がひとつ。そこに座っているのは確認するまでもなく、自分の血縁上の父だという人だ。俯いた顔は見えず、肘掛けに乗った腕も、地面に投げ出された長い足も力なく、こちらに何も訴えかけてはこない。窓から一陣の風が吹き込む。覚えのある腐臭がする。彼の動かない指先から、正体の分からない液体がひとしずく滴り落ちた。
「あら、おかえりなさい」
 柔らかな女性の声にはっと顔を上げる。いつの間にか椅子の傍らに、彼の妻が佇んでいた。穏やかに母は微笑む。
「さあお父様に、ご挨拶を」
 母が、父の右肩に白魚の指先を重ねる。その仕草は彼の健在を殊更強調した。腐臭が一層強まる。
 彼の左手が微かに揺れた。風か、それとも。
 今すぐにでも踵を返しこの場から逃げ出さねばならないのに、足は釘でも打ったように動かない。離すこともできない視線の先で、父の黒ずんだおとがいが開いた、気がした。
 
「──!!」
 悲鳴はただ虚空に飲まれた。素早く周囲を見回したものの既にそこには父も母もおらず、それどころかあの石壁の部屋もなく。ただ金色の小麦畑と、抜けるような青空がどこまでもどこまでも広がっていた。風が、重たくなった麦の穂を揺らして渡っていく。
 外に、出られたのか。
 いや。
 どうして忘れていられたのだろう。
 ここは、取り返しのつかない数々の失敗の果てに、救いたいものを何一つ救えなかった世界だ。
 失った親友の名が、口から零れた。次に共に世界を救う筈だった勇者。父を、母を。今まで縁を紡いできた人たちの名をひとつひとつ呼んでは、胸の辺りまで届く麦の穂を掻き分け或いは踏み付けて走る。どこまで行っても景色は変わらない。息が切れて肺が痛むようになっても、足を止めることはできなかった。咳き込みながら知っている全ての名を片っ端から呼び続け、だがこの世界には、血を吐くような懇願に応える者はいない。
 深い意識の底から無理やり引きずり上げられる苦痛に呻いた。明らかに力が入りすぎていている指に加減なく肩を掴まれ、骨を折る気かと文句を付けようとして、はたと思考の復旧に気付く。貼り付いたような瞼をこじ開けると、枕元の薄明かりに照らされたファラザードの魔王が、眉を顰めてこちらを見下ろしていた。
「あ」
「あ、じゃない」
 険しい表情は崩さぬままだが、人の肩をへし折るところだった手を離して、彼は元のように隣へ転がった。些か乱暴なその勢いで、癖の強い赤毛が弾むようにシーツに広がる。肩口で阻まれていた血流が戻りじんと熱を帯びる。痛みは無事現実に帰ってこられた証拠だ。
 途中から毎度お馴染みの悪夢だとはわかっていた。とは言っても、夢だという自覚があったところで都合よく目覚められた試しなどない。いつもひとしきり真っ当に苦しみ、夢魔の気が済むまで付き合わされるしかなかった。夢魔と言ってしまえば他人事にできるが、つまりあれは、現実かもしれない未だ伏せられたままのカードであり、そして今も傍で息を潜めている一歩踏み外した先の未来だ。どちらも所詮はこの身の内に飼っているものだった。
「夢か?」
 率直に聞くユシュカの素っ気ない口調も、彼なりの気遣いなのかもしれない。大分みっともなくうなされてしまったのだろうか。肯定の返事をしようとして、胸の芯辺りから広がり始めた震えに狼狽えた。まだ熱の残る自分の肩を抱く。すぐに歯の根が合わなくなった。可能性上の存在に過ぎない筈の、救えなかった人たちの怨嗟が押し寄せてきて、感情の処理が追いつかない。胎児のように丸くなりどうにかこの波をやり過ごそうとする。早くこの身体の主導権を取り返してユシュカの問いに答えないと。
 首尾良く答えられたからと言って既に相手が訝しく思う程度の間は空いてしまっているし、この至近距離では俺の異変が目に入らない訳はないだろう。何一つ取り繕える要素もないのに気持ちが逸って、冷たい汗が額に滲む。背中が変に寒い。
 とうとう傍らの空気が動いた。次の瞬間には衣擦れの音と共に抱き竦められて、息が止まる。
「……焦らなくていい、大丈夫だ。つまらないことを聞いた」
 一心にこちらの身を案じる声音だった。ぎしぎし音を立てそうな首を何とか横に振ると、頭上で溜め息をつく気配がした。まだ何か言われるかと思ったが、それきり黙った彼から凍えきった背中を緩やかにさすられる。大きな手のひらからとろ火に炙られるような熱が伝わってくる。頭の中は嵐に翻弄され、震えは相変わらず止まらない。ただ時間的な猶予を与えられたことで焦燥感だけは和らいだので、押し寄せる膨大な量の情報をなるべく見ないようにして、ぼんやりと自分の浅い呼吸を数えた。閉ざした瞼の裏で、べったり塗り潰された赤と黒が不定期に明滅している。
 ひとりであれば、この醜態を見る者さえいなければ、時間が波を鎮めるのを粛々と待っていれば良かった。落ち着いた後で自分を襲うであろう羞恥を思うと収支トントンといったところか。
 余計な方向に転がり始めた思考は、余裕が出てきた兆しでもある。手始めに指先の力を抜いて、深く息を吸って、吐く。吐き終わりが頼りなく震えて、目の前にあるユシュカの胸に顔を押し付けた。まったく、情けない。ゆっくりと背中を撫でていた手が動きを止めて、再び身体に腕を回されやや息苦しさを感じる程度に拘束が強まった。
「寒くはないか」
 角度を変えた問いかけは、ただこちらを気にかけているというだけの意思表示なのだろう。優しさを受け入れ首を振る。押し付けた額から彼の鼓動が伝わってきて、ようやく落ち着いてきた自分の呼吸の代わりに今度はそれをじっと聞いていた。
 
 
 落ちる。
 背筋がぞっとするような自由落下の錯覚に、全身が強ばった。いつの間にか意識を落としていたらしい。そのまま眠ってしまえれば良かったのに。額を付けたままの温かい胸の心音に変化はなかったが、起こしてしまっただろうかと恐る恐る顔を上げたら、案の定気遣わしげな視線にぶつかって気まずい沈黙が流れた。
「……寝てる時に、高いところから落ちた感覚に襲われてびっくりして目が覚めること、ありません?」
「あるな」
 自らの恥を晒す形になってしまったが、ユシュカの表情が和らいだのでひとまず良しとする。額に受けた口付けが、こめかみに頬に、降りてくる。目を閉じると唇を啄まれた。途端、肌にさざ波が立つような悪寒が走る。己の浅ましさがひどく疎ましい。幾度かの軽い接触の後、温かくぬめる舌が口内に入り込んできた。たったそれだけで震えそうになる身を辛うじて抑える。待ち望んでいたことに、気付かれてしまっただろうか。能天気に盛っていていい状況ではないと思うのだけれど。毎度毎度火がついてしまってから慌てている気がする。腹の奥底で燻り続ける熱をコントロールする術が全然身に付かない。進歩がない。いや、ひとつだけ、その火を一時的に鎮める手段を知ってはいるのだ。ただ、自身のために人の優しさを頼ることについては未だに強い躊躇いを覚える。
 やけに丁寧に中を探っていた舌に上顎をくすぐられて、とうとう鼻声が漏れた。身を引こうとはしたが、容赦なく羽交い締めにしてくる腕に阻まれうまくいかない。合間に唾液を飲む水音にすら背筋がぞくぞくして、ほんの僅かな触れ合いなのに既に箍が外れてしまっている。もっと奥にも欲しい、触れたい触れられたい欲求に取り憑かれて、いつの間にかユシュカの胸元にしがみついていた拳を一層強く握り締めた。離れていく唇を追いそうになる。指一本分離しただけの距離で、眠れそうにないのだったら少し俺に付き合えと、欲しかった言葉を人の心を読んだように寸分違えず寄越してくるのでもう駄目になるしかない。
 
「ぁ……」
 内腿を撫で上げる手のひらに反応して漏れた声には、あからさまな失望の色が滲んだ。いつもだったらとっくに一度目を終えて小休憩を取っている頃合いなのに、今日はまだ快楽の中枢にすら触れられていない。胡座をかいた上に乗せられて、指先で肌を辿られ、摘まれ、くすぐられ、気が向けば口付けられて口内を弄ばれて、ただそれだけを丹念に繰り返された身体は限界が近くて思わぬ場所を撫でられただけで、無様に腰を浮かせてしまう。
「……ユシュカ」
 とにかく、一度すっきりして落ち着きたかった。大変みっともない事態に陥っている身体が、余すことなく彼の視線に晒されている点を癪に思いながら、出したい、と率直に要求を伝える。
「もう少し、我慢できないか?」
 案の定つれない返事を寄越されて、我慢できないから言っているのだと言い返すのも面倒になって、直接的な刺激を待ち侘び先走りを零すそれに自ら手を伸ばした。あと少しというところでイライラの原因に目敏く見咎められ伸ばした手を掴まれ、短気を起こしそうになる。
「せっかく俺がここにいるというのに一人で解決しようとするな。寂しいじゃないか」
 全くお前というやつは、と付け足してユシュカが笑う。
 思わず彼の顔を凝視して、その癖見ていられなくなって次の瞬間には目を逸らした。悪夢から覚めた後、甘やかされるに任せて彼を蔑ろにし通しだった自分に、そこまで言われてようやく思い至ったからだった。自分自分で目の前にいるユシュカに人格を認めず、根気よく付き合ってくれている彼を振り回して挙げ句意思の疎通すら面倒くさがって。我慢できない、と一言言えば良かったのだ。見せかけよりずっと彼が繊細な質であることは、闇の根源を打ち破る過程で嫌というほど思い知らされたではないか。もっと丁寧に心を砕く必要があったのに、現実は真逆だ。
 背中の血の気は引いているのに頬は熱い。
「……ごめんなさい」
「俺の個人的な所感の話だから謝る必要はない」
「違う、そうじゃなくて。あの」
 さらりと躱されて、言い訳じみた何かがまとまりなく溢れ出る。
「俺がいつも考えなしで、あなたをこんな風にぞんざいに扱うようなことばかりだから、いずれあなたが俺のことを嫌になってしまうんじゃないかと」
 掴まれていない方の手ではっと口を塞いだが遅かった。
 結局自分のことしか考えていないじゃないか。付け焼き刃で心から彼を想うことなどできなくて。自分への失望に涙腺が緩みそうになって歯を食いしばる。こんなの、卑怯だ。
 上げられない顔に影が覆い被さってくる。肩を引き寄せられ頭の上にユシュカの顎が乗った。
「お前な」
 呆れ果てた口調に、いよいよ愛想を尽かされたと覚悟をする。
「危うく先にいくところだった、どこで覚えたんだその凶悪な口説き文句は」
 割と多めの疑問符が、脳内に飛び交った。知らない言語ではないのに、彼が何を言ってるかが理解できない。理解できないので黙っていると、頭に乗っていた重みが離れて代わりに顎を捕らえられた。見上げた金の双眸に怒りの色はなく、興味深げにこちらを見下ろすばかりで。
「まさか自分が今何を言ったかわかってないのか?」
 突然貶されむっとする。
「わかってます」
「ならいいが」
 むきになって小声で返すと、ユシュカは目を細め口角を上げた。小馬鹿にされていることだけはわかる。俺には理解不能なことをユシュカがすべて理解している様子なのが気に食わないが、問い質す気概もない。
「お前の八方美人は承知しているが、他のやつにはまかり間違ってもそんなこと言ってくれるなよ」
 言うわけがない。何しろ彼相手でなければこの状況に陥る可能性など万に一つもないのだから。
 改めて片手を取られ、ユシュカの足の間に導かれた。握らされた猛る剛直は今にも爆発しそうな熱と硬さを持ちどくどくと脈打っていて、この状況で涼しい顔で会話していられるのだから魔族恐れ入ると変な意味で感心する。彼の望み通りに手を動かせば、いいぞ、と乱れた息混じりに耳元で囁かれ腰の辺りがぞくりと疼いた。その胸に額を寄せ、すっかり馴染んだ砂漠と汗の香に耽る。半ば存在を忘れかけていた切羽詰まった事情に直接触れられたのはその時だった。
「ぅあっ!」
 雷に打たれたような衝撃に腰が引ける。危うく手の中のものを握り潰すところだった。今度こそはっきり涙ぐんだ目でニヤニヤしているユシュカを睨みつける。
「お前の望みに応えてやっただけだが」
「……あなたの大事なものが使い物にならなくなるとこでしたよ」
「ソレが使い物にならなくなったら困るのはお前だろう」
「そんなことあるものですか」
「つれないな」
 反発するだけでは魔王の心を動かすことができず、終始ニヤついていた彼とのにらめっこにも屈した上、覿面に鳴かされる羽目になる。
 
 すっきりしたら暴力的なまでの眠気に襲われた。まだ行為の最中だというのにぐらぐら揺れる頭を支えることすら覚束ない。べたべたになった手のひらとそれ以上の大惨事になっている足の間を甲斐甲斐しく拭うユシュカの手つきがひどく優しくて、何故か少しつらかった。目を擦る。
「眠いんだろう? 大丈夫だ、また夢を見るようなら叩き起こしてやるから」
「でも、」
 欠伸を噛み殺しきれなかった。
「続きは明日のお前に付き合ってもらおう」
 子供に言い聞かすような彼の柔らかい声が急に遠のく。目を開けていられない。
 額に唇を落とされた、その感触を最後に記憶が途切れている。
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