子守唄を聞く

この話の後日談。
 
 
 遠く歌が、聞こえる。
 短い簡素なフレーズを歌詞を変えて何度も何度も繰り返すその旋律は、聴く者を穏やかに眠りへと誘う。上質の毛布のようなそれに包まれてうとうとと微睡む時間は、金では購えぬ至福に思える。
 ……時間?
 我に返る。悠長に過ごしている暇はなかった筈だ。
 早く──を救わなければ。俺でなければ、果たし得ない使命だ。
「っ……」
 目を開けた瞬間に飛び込んできたさほどでもない光量に負けて、眉を顰める。室内の明かりが照らし出すのは、見慣れた調度にベッドに、それからベッドの端に腰掛けている、先だってクビにした筈の元しもべだった。歌は、その唇から小さく紡がれている。黙ったまま聴いていると間もなく覚醒に気付かれて、旋律のか細い糸がふつりと途切れた。余韻が宙に浮いて、瞬く間に掻き消える。振り向いた顔には戸惑いの色が濃い。
「ごめんなさい、うるさかったですか?」
「いや」
 どちらかというと、派手に寝坊させられるところだった。起き上がろうとするのを制止される。
「寝ててください。過労で倒れたの、覚えてないんですか」
 真顔で下らない冗談を言い出すので鼻で笑ってやろうとしたが、確かにベッドに入った記憶がない。起こそうとした身体が、手足が鉛のように重い。雑な手つきでシーツをかけ直されてまた元のようにベッドへ埋め立てられた。
「このままだとユシュカ様が働きすぎで死んでしまいますニャ!なんとかしてくださいニャ!って、あなたの部下に縋られまして」
 あまり似ていない側近の声真似をし、ひとりで可笑しそうに笑ってから元しもべは目を伏せた。床に下ろした自分のつま先を見つめながら、一転してつまらなそうに再度口を開く。
「始めは、何でも屋じゃないんだからって断ろうとしたんです。喧嘩別れしたも同然の人間が周りをうろうろしてたら、あなたも目障りでしょう? 押し問答してるところへちょうど倒れたあなたが担ぎ込まれてきて」
 ともかく安静にとか部屋に運んで寝かせようとかすぐ医者を呼んでとかすったもんだしてる内に、いつの間にか俺が付き添う流れになってたんです。
 納得行かなさの残る口調で状況説明を終え、溜め息を吐く。
「手間をかけたな」
「……いえ。大事にはならなかったようで良かった」
 実のないやり取りはそのまま途切れて、沈黙に置き換わった。あの日から、国の復興のために無限に湧いてくる無理難題に民の陳情にしょうもない雑事を昼も夜もなく捌き続けている。城やバザールの者と都度役割分担はしているが、人手がいくらあっても足りないというのが正直なところだ。戦後処理に市場の立て直しに、それから失われた王の片腕が空けた大穴。欠けた半身を悼む暇もない。……いや、むしろ積極的にその暇を作らぬようにしているのは所詮己に他ならない。目と鼻の先にある自室にすら戻らず泥のように疲れ切るまで働いて玉座に座ったまま気絶するように仮眠を取り、浅い眠りから覚める頃には目の前に新たな課題が山積みになっている。既に日付の感覚すら怪しかった。
「献身と自暴自棄を間違うと、そうなるんです」
 裏切り者の癖に、全てを分かっていると言わんばかりの説教じみた物言いが癪に障る。つい最近魔界を知ったばかりしもべ風情が俺の何を理解しているというのか。
「間違えた経験でもあるのか?」
「俺はそんなに真面目に生きてないので」
 いけしゃあしゃあと言い切ってみせる。
「単なる説教好きか」
「今のあなたには必要でしょう」
「必要とあらば身体さえ差し出すのかお前は」
 過日、魂の片割れを喪った耐え難い痛みに苦しむ自分に、何の躊躇いもなく己が身を投げ出したのがこいつだった。別にあれで直接的に救われた訳ではなかったが、濁流のように襲い来る負の感情を目の前の身体に叩き付けている一時だけは、多少なりとも痛みから距離を置けた。僅かとはいえ苦痛をやりすごせる時間が取れたからこそ取り戻せた正常な判断力で、やっとこのところの日々を乗り切れているとは思う。改めて礼を言う気にはならないが。
「……あれは利害が一致してただけで、あなたが思ってるような話じゃない。多くの犠牲者が出る大戦の勃発を十分に予期できる状況であったにもかかわらず、未然に防ぐことができなかった。その罰が俺には必要だった」
 何を言っているのだろう、こいつは。
「アストルティアからの行き倒れ風情が、運命の担い手気取りか」
 最後の問いには答えずに、裏切り者はただ笑った。御しやすいように見えてごくたまに、こういう底知れぬ表情を見せる。気に食わない。が、かと言ってその存在を黙殺することもできない自分にも苛立つ。答えの得られない問答を重ねるのにも疲れてきた。
「もう休んでください。話はその後にしましょう」
 あなたが次に目覚めるまではここにいますから。実はあなたの臣下から前金いただいちゃってるんです、と元しもべは現金な一面を見せてから立ち上がろうとした。その手首を掴んで引き止める。
「まだ、何か」
「歌を」
「え?」
「さっきのをもう一度聞きたい」
 ああ、と合点して、元しもべは微かに頬を染めて目を逸らした。今日だけですよ、と念を押してからベッドに座り直し、ひとつ咳払いをする。幾度かの繰り返しで既に覚えてしまった単調なフレーズは、胸の内へと静かに沁み入ってきた。遠い異国の優しい子守唄を紡ぎ出す、その横顔を眺めているうちに忍び寄る睡魔に絡め取られ、ゆっくりと闇に落ちていく。
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