砂漠の夜を見にいく

「風が出てきたな」
 砂の都を見下ろす丘の上まで二人分の体重をやすやすと運んできた馬の首を軽く叩いてねぎらってから、ユシュカは背後の白い月を仰いだ。深い青に墨をひとしずく垂らしてかき混ぜた空の、月あかりが届く範囲だけがしらじらと淡く明るく染まっている。その月が沈んでしまってからがファラザードの本当の夜の色なのだと彼は言うが、宵っ張りの砂漠の民の気質に似たか夜が明ける本当に間際までその姿を隠そうともしない月を追う形で日が昇ってしまうため、ほんの刹那にしか見られないその色を確かめるのは今日が初めてだった。故郷では、新年を迎える日だけは村中こぞって夜明け前に起き出して朝日を迎えたものだった。その慣習がこちらだと、気温が下がってくるこの時期には太陽の位置が極めて低くなるせいで、夜が明けてもめったとその姿を拝むことができなくなるという事情があるために「砂漠の夜を見にいかないか」という話になるらしい。ユシュカにそう誘われたときに大分ポカンとしてしまい、互いの故郷の気象の違いを擦り合わせ腑に落とすのに結構な時間がかかった。そういった出自による食い違いは未だに無視できない頻度で起こる。どこからどこまでが異なっていて似通った点はどこなのかを探す作業は答え合わせにも似て純粋に面白い。
 ようやく傾きかけた月の方を向いて座り込んだユシュカの隣に腰を降ろした途端彼が身に付けていた外套に手際よく包まれて閉口する。どの程度冷えるかくらいはわかっていたので自分でもできる限りの対策をしてきたのだが。
「大丈夫です、あなたの方こそそんな軽装で寒いでしょう?」
 外套を突っ返そうとごそごそしているうちに、苦笑する彼の片腕に抱き込まれた。
「ここに国を興してから五十年、だ」
「?」
「砂漠で暮らしてきた年月を足せば、もっとだな。ファラザードは歴史の浅い国だが、人ひとり暑さ寒さに適応する程度の話なら、十分な長さだろう?」
 血の巡りが悪くなり始めている指先を温かな手のひらに取られ、喉元まで出かかっていた反論を飲み込む。確かにこれでは分が悪い。諦めて外套に残る彼の体温に身を委ねる。
「年初めの大事な日に、王様がこんなところで油を売ってて大丈夫なんですか?」
「王ひとり少々留守にした程度で潰れるようには作っていない。しもべをやっていたお前ならよく知っている筈だが」
 それでも息をすれば次々出てくる憎まれ口にも、ユシュカはすっかり慣れた調子で応じた。
「ほら、月が沈むぞ」
 彼の左の指先が示す地平線へ、ゆるやかに月が姿を消していく。本体を包む冷たい光がその後を追うように徐々にその範囲を狭め、やがて地平線の下へと運命を共にした。後に広がるのは墨混じりの深い深い青と、流れゆく雲、それからその狭間にぽつぽつ浮かぶ星々。風の音はひとときも止んでいないはずなのに、こめかみが痛くなるような静寂も感じてちょっと耳を押さえた。
「……あおい」
 唇から単語と白い息がこぼれた。刻々と変化していくどれひとつとして同じもののない種々の「青」を正確に表現する語彙を持たない己を歯がゆく思う。
「美しいだろう?」
 故郷の景色を誇る彼の声へさえもおざなりに頷いて、見えるものを一つも取りこぼすまいとする視界の端で地平線が白み始めた。
 朝が、来る。
 姿を見せない太陽が、それでも世界を白く、明るく染め上げていく。
 詰めていた息を吐いて肩の力を抜いた。ふと忘れかけていた存在を思い出してユシュカの方へ視線を移すと、こちらを見下ろした目を得意げに細めてみせる。外気に晒され乾燥した頬へ触れてきた指先が、その辺りを何度か撫でるように往復してから顎を捉えにきた。
「わざわざ連れてきてやった甲斐があるというものだ」
 目を閉じて受け入れた唇の熱に少し驚く。溶かされそうだ。一度軽く口付けてから、冷たいと文句を付けてくるので睨んでおく。自分から仕掛けてきておいてそれはないだろう。
「じゃあ温めておいてください」
「言うようになったな」
 言うように、というか元々こんなものではなかっただろうか。
 移る熱に溶かされて、自分の輪郭がだんだんとぼやけてくるのを自覚する。不釣り合いな穏やかさで触れてくる指も唇も、自分などに向けていていいのだろうかとは思う。彼の優しさはきっと独占していい種類のものではないのに。
「ん、」
 首筋をくすぐられてユシュカの胸を押し返す。
「寒いから嫌です」
 率直にその先を断れば、何故か上機嫌な様子の彼から乱暴に頭をかき混ぜられた。外套をユシュカに返して立ち上がる。そろそろ城の人達が起き出して、彼らの主の不在に気付く時分だろう。
「来年は、エテーネに来ませんか?」
 先に馬にまたがった彼に手を引かれながら思いつきを口にしたら、意外にもこの誘いを受けたときの自分と同じくらいキョトンとされたので、思わず笑みがこぼれた。
「砂漠の夜に負けないくらいには、向こうの夜明けもきれいなんです」
 別に今日明日明後日の約束でも良かったのだけれど、今は、少し未来の二人を信用してみたかった。少々の苦難ならば、それを糧に乗り越えていけるだろうから。
「ああ、それは楽しみだな。一年後か。忘れてくれるなよ」
 破顔した彼の一言多い返答へ、どう言い返すか悩む間に、休憩を挟んで益々やる気に満ちたファラザードの馬が都に向けて駆け出してしまい、その先がすべてお預けになった。

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