人魚を飼う
真昼の苛烈な暑気が落ち着いてきた夜道を歩くのは嫌いではない。ぽつぽつと灯る街灯を見上げ、我が家へと続くその明かりがあといくつかをゆっくりと数える。十に満たないカウントダウンを終えて三段分の階段を登り、自動ドアにカードキーをかざした。解錠の電子音を追い抜いてドアをくぐり奥のエレベーターを目指す。いつもこの辺りまで来ると変に気が急く。家に待つ人との再会が待ち遠しいというより、その身の無事を案じるような日々の平穏をひたすら祈るような、些か物騒な類の杞憂だ。
「ただいま」
電子錠が回る短い時間すら待ちきれず、解錠前のドアノブに手をかけては派手な音を立ててしまい、出迎えてくれたエックスに「慌てすぎ」と笑われるのも日常茶飯事だった。
その出迎えが、今日はない。
足を踏み入れた玄関は、息苦しいほどの湿気と熱気に満ちている。真っ暗な廊下の奥、リビングからの明かりも漏れず。普段ならばとうの昔に解消されているはずの無駄な杞憂が一気に膨らむ。靴を脱ぎ捨てるようにして大股で踏み込んだリビングもやはり何もかも奇妙に静まり返っていて。どうか出かけていてくれ、と祈りながら明かりをつけた。
広くはないリビングを見渡した視線に何かが引っかかる。ソファーから投げ出されたジーンズの足だ。決して温度だけのせいでない汗がじわりと背中に滲むのを感じた。
「エックス」
叫びたかった声が、ただ頼りなく掠れた。もつれそうになる足で駆け寄り、そこに横たわる身体を抱き起こす。直に触れた肌が熱い。一体何があった。声が出なくて名も呼べず、震える手のひらで軽くその頬を叩く。歯の根が合わず、心臓は破裂しそうだった。
永遠にも似た時間の後、内包する熱にそぐわない白い瞼が震えて眉根が寄る。眩しそうに二三度瞬きし、色素の薄い瞳にはっきりとした意思が戻った。
「……おかえり。ごめん、寝てた」
腕の中の彼があまりにいつもと変わりなく笑うから、もう少しで腑抜けた「ただいま」が口からこぼれ落ちるところだった。いつもと変わりない様子で身を起こそうとして失敗し、胸元にしがみついてこられてやっと我に返った。
「あれ、変なとこで寝てたからかな。ちょっと気持ち悪い、かも」
どれくらいの時間眠っていたかにもよるが、こんな真夏に窓も締め切って寝ていたなんて生きてくれていただけでも奇跡だ。成長期特有の華奢な身体を抱き上げて、浴室を目指す。何、とか、ねえシュー、とか非難の声が上がっているが、一刻を争う事態なので後回しにする。リビングからの明かりを頼りに服を着たままのエックスを浴槽に担ぎ込み、普段入れっぱなしの給湯のスイッチをオフにした。冷水のシャワーは、彼の生命を脅かす熱を冷ますには頼りないほど温い。本当にこれで良いのだろうか。救急搬送も視野に入れなければならないかもしれない。
「じっとしててくれ」
手短に指示して冷たい水をエックスの首元に当てると、それまで混乱の最中にあっても従順であった身体が、びく、と硬直しそのまま動かなくなった。はっと顔を上げると透明で虚ろな視線が自分を貫いて浴室の壁の更に向こうを見ている。全身の血の気が引いた。
「エックス!」
今度は、声が出た。が、よく見れば彼の唇が微かに動いている。シャワーの音がうるさいが止めるわけにはいかなくて、その口元に耳を寄せた。
──ごめんなさい、許して。
ひたすら、その繰り返しだった。
金で解決できる範囲のあらゆる手を使って調べ上げたエックスの身上の中には、あの甘い笑顔からは想像もつかないような虐待の記録も含まれていた。近所からの伝聞ではあるが、冬になると浴室の辺りから延々シャワーの音とごめんなさいと泣き叫ぶ子供の声が聞こえていたと。
迂闊だった。
これは救命行為であると同時に、彼の心の傷を無理矢理に抉る蛮行だった。一刻を争う事態ではあるが、一言でも説明してエックスを安心させることくらいはできただろうに。
どうしたらいい?
どうしたら心を壊さずに、命を救えるだろう。
確証も得られないまま、冷水が彼を捉える角度でシャワーヘッドをフックにかけ、浴槽越しにその肩を抱き寄せる。いまだ熱のわだかまる肌に触れる自分の体温が、もし彼を殺すことになってしまったらという不安で胸が潰れそうに軋んだ。
違う。取り違えるな。
今本当に痛いのは、苦しんでいるのは誰か。
大丈夫だ、絶対に助ける、俺がついているという意味の言葉を繰り返し強張った身体に語りかける。水音と、自分の声だけが薄暗い浴室に反響して怪しげな儀式のようだと内心自嘲した。ひょっとしてもう彼は一生このままなのではないか。質の良くない妄想に囚われそうになった刹那、抱いていた身体の力がふと抜けてその腕が持ち上がりこちらの背中に回った。人の肩口に一度擦り寄せた顔が上がる。
「ごめん、変なスイッチが入っちゃったみたいで」
照れくさそうに眉を下げる。その表情は俺のよく知るエックスに違いなかった。頬に触れた指に、もう異常な熱は感じ取れない。
「君は、謝ってばかりだな」
「そうかな? ねえ、もしかして僕結構危なかった?」
シャワーの栓を閉めると、いつの間にか肩の辺りまで溜まった水を「水風呂だ」なんて無邪気に手ですくっている。
「まだ大丈夫かはわからない。大丈夫そうには見えるが。気分はどうだ?」
「もう平気。あ、でも今急に喉が渇いた」
「持ってくる。君はまだそこにいた方がいい」
ずぶ濡れになったシャツを脱ぎながら立ち上がると、何故か慌てた様子の彼に呼び止められた。
「あの、僕は全然待てるから、風邪引いちゃうしちゃんと先に着替えてね」
呼び止めた癖に妙に視線を逸しながら言うものだから、思春期は難しいと思う。
部屋のエアコンを最低温度の設定で入れてから、エックスの言う通りに部屋着に着替え、冷蔵庫を開ける。取り出したペットボトルの水を手が濡れていても持ちやすいようにマグカップに注ぎ、少し考えて氷を一欠片だけ入れた。
浴室に戻ると、ぱっと顔を上げたエックスが水風呂の中から手を振った。その目尻が赤く染まっているのを認めて後悔する。きっともっと時間を置いて戻った方が良かったのだ。察しの悪い自分に歯噛みする。
「少しずつ飲むんだ。慌てて飲むと胃がびっくりするから」
「わかってるよ」
幼子へ言い聞かす口調に気分を害したかやや乱暴に応じて、それでも言った通り慎重にゆっくりカップを傾けるエックスを見守る。やっと人心地ついた気がする。水中で白いTシャツの裾がゆらゆらと揺らめいている。
「バスタブで人魚を飼っているみたいだな」
「えっ、人魚ってお風呂で飼えるの?」
そこかというポイントに感心してから、突然良いこと思いついた顔で「じゃあシューは僕を地上に連れ出してくれた王子様だね」などと心臓に悪いことを言うから噎せそうになった。
「……どちらかというと地上へ上がることを唆した魔女の方じゃないか」
「えー、それじゃつまんないよ」
氷の欠片をかりかり噛み砕きながら不満げにこぼす。何がつまらないんだろう。急病人じゃなければ全部吐くまで問い詰めたい。
「どうしてエアコンを切ったんだ?」
天井を見ながらこの騒動の発端を聞く。君の様子を見たいから今夜一晩だけは一緒に寝ようとの提案へ神妙に頷いたエックスとエアコンの効いたリビングで布団を並べ、今は彼の眠気が来るのを待っている。
「日が翳ってきたから、もういいかなと思ったんだ。電気代ももったいないし。そしたら眠くなっちゃって」
賭けてもいいがそれは普通の眠気じゃない。
「しばらくリモコンは没収だな」
「えー」
寒いときもあるんだけど。ぼそぼそ文句を付けてくる彼には、寒い分には着るものも布団もたくさんあるだろうと返しておく。そろそろ、この家にいたいんだったら俺に対する遠慮を一切合切忘れてもらわなければならないと、わかるまで言い聞かせる頃合いだろう。何より今日みたいなことがあったらこっちの心臓がいくつあっても足りない。それと同時に彼の内側に踏み込むことを恐れている自分も克服せねばならないとある種の覚悟を決める。
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