結局朝まで一睡もできなかった
喉が渇いた。
深夜にぽっかり浮かんだ欲求を見ないふりしていたら二度寝に失敗し、すっかり目が覚めてしまった。そういえば寝る直前に明日の予習の範囲を間違えていたことが判明してすったもんだしていたものだから、入浴後に一杯の水を飲む習慣を昨日はすっ飛ばしてしまったんだった。目を擦り、手探りで枕元のデジタル時計を引き寄せると、暗闇に2:45の文字が浮かぶ。水分を取ってから寝直してもまだ平気な時刻だ。
そろりとベッドを這い出て自室の扉を開ける。斜向かいにあるシューの部屋からはまだ明かりが漏れ出ていた。紆余曲折諸々の事情の末に、僕をここに置いてくれている家主は、普段から床に入るのが遅い。ついこの間「楽しい夏休みの前には楽しくない試験があるんだ」とこぼしていたし、そろそろそっちの勉強を始めているのかもしれなかった。足音を忍ばせてリビングの戸を開ける。別にその必要はないのだけど、夜中にこそこそ起きていたのが知られたらきっと余計な心配をさせてしまうから。静まり返ったキッチンで低く呻る冷蔵庫から、水を取り出す。ここに来た当初、水道水をコップに汲んで飲んでいたら、シューから「そっちの方が好きなら、別に構わないんだが」と遠慮がちに冷蔵庫のミネラルウォーターを勧められ、顔から火の出る思いをした苦い記憶が蘇って苦笑した。
互いを隔てる生育環境だとか経済的格差だとかの壁をあっさり叩き壊して、手を伸ばしてくれた相手に惚れ込んでしまわない方がどうかしてる。でもシューの方はどうだろう。保護者みたいなものだから、男同士だから、ひょっとしたらそういう要素を気にする方かもしれない。一円も稼がない僕みたいなのを家に置いてくれて、その上学校にだって行かせてくれてるんだから、きっと嫌われてはいない。ただ、嫌われてはいないという話と僕のことをそういう目で見てくれるかどうかはまた全然別の問題だ。
ペットボトルの水をグラスに移し、一息に飲み干す。
恋愛感情はエゴの塊だ。勝手に相手に入れ込んで、相手の気持ちを良いように解釈して、押し付けて。僕がこんな化け物を身の内に住まわせていることが、いつか君を傷つけてしまう結果にならないか、たまに怖くなる。
「起きてたのか」
「ひっ!」
考え込んでいたせいで扉の音にも家主の気配にも気付けず、背後のシューへおばけでも見る顔を向けてしまった。
「ごめん、驚かせたな」
動揺する僕の肩へ落ち着かせるように一旦左手を置いてから、彼は冷蔵庫を開けた。アイスコーヒーのボトルを取り出し、当たり前のように僕が先ほど水を飲んでカウンターに置いたグラスにその中身を注ぐ。シューがそれを飲み終わるまで、僕は一声だってかけることができなかった。
だって、これって。
「もしかして」
視線に気付いたシューがグラスを軽く上げてみせる。
「君が使うところだったのか?」
「ううん、あの、もう飲んだ後だったから」
大丈夫、との語尾は掠れてうまく言えなかった。
「ならいいんだが」
口調を緩め、それから手際よくグラスを洗って伏せた彼にとって、きっとこれは大事件でもなんでもなくて。込み上げてくる何かを、唾を飲んで無理やり胃に落とした。
「眠れそうか?」
振り返ったシューからの優しい言葉さえ恨んでしまいそうな今夜の自分はとても醜い。
「うん。シューもあんまり無理しないで早く寝てね」
うまく笑えたかな。わからない。キッチンの明かり、つけてなくて良かった。
ふと彼が屈み込んできた。見上げた額にほんの一瞬だけ彼の柔らかな体温が移る。
「おやすみ」
そっと囁いてシューがキッチンを出ていき、静寂だけが後に残った。額に残った熱が全部消えてしまっても、一歩でも動いたら膝から崩れてしまいそうで、僕はいつまでもその場に突っ立っていた。
彼にとっては身内に示す親愛の情でしかないそれは、僕にとっては大事件だったのだから。
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