砂漠に降る雨
半地下になった酒場のカウンターに座って窓の外を見ると、視線と地面がちょうど同じ高さになる。格子の嵌った窓の隙間から、行き交うバザールの民の足元や車輪が立てる砂埃をただ眺めているのが好きだった。
その日は朝から空気が重く、水の匂いが濃かった。もしやとは思ったものの、みるみるうちに押し寄せた暗雲から逃げるように裏通りの馴染みの店へ飛び込む。とりあえず注文した一杯目が来る前に窓の外は土砂降りの別世界に変貌していた。
砂漠の雨だ。
窓ガラスに叩きつける大粒の雨は店内の喧騒すらかき消す。自分と同じく雨宿りに立ち寄った客らから相次いだ注文で、雨の直前まで暇そうに外を見ていた店員は今や慌ただしく立ち働いている。たった一杯で雨を凌がせてもらうのも悪いかと思い、他の注文が落ち着くのを待ってから軽い食事を追加した。そこで初めて店員が、今まで釘付けだった伝票から目線を外してこちらを見、なんだ、と相好を崩した。
「大魔王様でしたか。どうです? 砂漠に降る雨は」
かぶったままだった日避けのフードを上げ、すごいですと素直な感想を述べると、そうでしょうそうでしょうと彼は胸を張った。耳の位置にあるヒレの先が誇らしげに天井を指している。故郷の恵みの雨とは全く質が異なる激しさだ。篠突く景色に視線を戻してしばし二人で音に聞き入る。
「年に一度、見られるかどうかです。運が良かったですね」
のんびりにこやかな様子の彼とは対称的に、窓の外には不穏が広がり始めている。
厨房に呼ばれた店員が踵を返した直後、砂で覆われた地表が受け入れられるほんの僅かな量をあっさりと突破した水が、そこここで川を作り始めているのが目に入り息を呑んだ。周囲の賑わいは普段と全く変わりなく、ひとり動揺している自分だけが余所者のような気がして恥ずかしくなり、手にしたグラスを傾ける。と、計ったように軽い音を立てて食事の皿がカウンターへ届けられた。ウェイターに礼を言うため顔を上げ、目を疑う。皿を運んできてくれた彼の、しどとに濡れた普段着のベストと赤毛からぽたぽた落ちる雨が床に水たまりを作り始めている。酒場に駆け込んできた大半の客と同様に濡れ鼠のファラザード王は水滴をひとつも意に介さず口を開いた。
「良いところに来た、食事が終わったら仕事だ」
バザールに顔を出した時点で彼に情報が回るかもしれない程度の予想はしていたが、まさか本人が土砂降りの中裏通りまで顔を出すとは思わなかった。他国の王では考えられないフットワークの軽さは健在だ。
「めったとない雨は国に有益な情報をもたらしてくれる。が、今回の雨は範囲が広く十分に調査できるだけの人数が確保できなくてな。使える者を探していた」
人の皿から勝手にサンドイッチをつまんで頬張っているユシュカは、その「使える者」が依頼を断ってくる可能性を万に一つも想定していないのだろう。いつかけんもほろろに袖にして、ぎゃふんと言わせてやりたいものだ。が、今回は彼以外にも困る者が出てくる可能性が高いので、ぎゃふんの件については次回への課題とする。
「素人の調査でわかることなんてあるんですか」
「安心しろ、お前に向いてそうなのを選んできた」
自分がこの国に足を踏み入れてからほんの一刻も経っていない。雨の予想が立っていたにしても仕事が早すぎる。彼の有能さを一応知っているつもりではあるものの、時折見せる先読みの才にはぞっとさせられる。
「城の方は」
「ナジーンに任せている。城下の有識者のところへ一通り指示に回ったら俺も出る」
狭いカウンターに地図を広げた彼の楽しげな横顔は、王としての重責を果たしているというよりも、何か大好きな遊びに没頭しているという表現の方が適切に思える。
素人の自分に割り当てられたのは、城の地下と血潮の浜辺を繋ぐ水路だった。増水により崩れた箇所はないか、見慣れない魔物がうろついていなかったか、不穏な物音が聞こえなかったか、とにかく災害の予見につながりそうな情報はすべて記録してきてほしいとのオーダーだ。余裕があればネクロデアの入口付近までは確認してきてほしいとも。確かに普段から人通りのない水路は手入れが行き届いているとは言い難い。ユシュカが気にかけるのも理解できるし、ここからネクロデアにかけての複雑怪奇な地形の入江を自由にうろついている奇特な者は限られる。なんとなく気に食わないが適切な人選だ。
通路内に反響する水音は、以前通った際に聞いたものを遥かに凌ぐ。激しい音に表れている水量の増加は、だが人が通る通路までは至っていなかった。辺りに目立った異変は見られない。慎重に歩みを進めながら石の壁に走るクラックの内、規模の大きいものだけを手元の地図に書き入れていく。亀裂が今回の雨によるものであってもそうでなくても、早晩修繕が必要なのは変わらないだろう。
薄暗い水路を抜けて、浜辺に出ると強い西日に迎えられた。目を細める。雨はとうの昔に上がったようだった。岩場に光る水たまりやぬかるむ足元の砂がその残滓を残している。ざっと見渡す限りでは、地形にも浜辺に打ち寄せる穏やかな波にも変わった様子はない。辺りを徘徊する魔物の数だけは、いつもよりも少ないように感じた。魔物たちも雨宿りをするんだろうか。既にただの散歩になってしまっている気がするが、一応言われた通りにぶらぶらネクロデアの領地に踏み入り、切り立つ崖に目を留めた。崖が崩れて赤土が剥き出しになっている箇所がある。前からこうだっただろうか。近付いて手のひらを当てるとその赤土も音もなく崩れ、ぽっかりと洞穴の入り口が姿を現した。
一歩引いて武器を構える。何か、中から呻きのようなものが聞こえた気がしたが。
──おとうさん
呻きが、幼子の声に変わった。
か細い呼び声。
罠であっても構わない、と判断した時点ですでに捕らわれてしまったのかもしれない。
踏み込んだ洞穴は浅く、薄く光の差し込む行き止まりには、両手で抱え込めるくらいの黒い靄がうずくまっていた。
──おとうさん
靄がもう一度啼く。ぎゅっと胸を掴む痛みを無視して、声をかけた。
「どう、したんですか」
返事の代わりにもう一度、おとうさんと呟いた後、靄は沈黙した。俺の声は届かないようだ。手を伸ばし指先で触れると、そこだけ氷に触れたように冷たく痺れた。例えそれが魔物であっても生者でなくとも、今抱きしめて慰めてやれない自分を不甲斐なく思う。
「君の力になれるのならば、すぐにでも出発しよう」
一旦ファラザード城に戻り、ざっと事情を説明したところ、ナジーンは快く同行を承知してくれた。
「すみません、俺だけだと手詰まりで」
「いやこちらこそ、我が国のことで君の手を煩わせてしまい申し訳ない」
彼がネクロデアを自国だと明言してくれた事実には安堵する。かの地があのまま朽ちていくのは自分としても納得いかなかったから。
「では我が副官の留守は俺がしっかり守っておこう。此度の雨の情報も集まり始めていることだしな」
玉座に寝そべり事の成り行きを見守っていたユシュカが軽口を挟んできたが、興味がないと言わんばかりの態度の割に二人へ寄越す視線が優しくて、一言言おうと思っていた口を一旦つぐんだ。
「……できるだけ早く戻ります」
魔剣を抱え主の元に急ぐナジーンの後を追ったあのときとは逆の道順を、今度はその魔剣を飾る命の石に宿った彼を携えてゆっくりと歩く。一刻も早くと気は急いているのにそこに向かう足取りは重くなるばかりだ。
「君は、あの折と全く変わらないな」
案の定、ナジーンの方も似たようなことを考えていたようだ。
「なんです?」
「決して無駄な口は叩かないが、表情に全部出ている」
「っそんなこと、思ってたんですか」
顔に出る方だという自覚はあったが、改めて指摘されるときまりが悪い。
「いやすまない、言い方が悪かった。賢くて真っ直ぐで、気持ちの良い人だと言いたかったのだが」
「言い直されても」
魔王の優秀な副官らしからぬ失言に、苦笑が漏れる。
「君といると口が軽くなって良くないな」
至極真面目な調子で反省している彼は、ひょっとしたら浮かない様子の俺に気を使ってくれたのかもしれなかった。
黒い靄の、ナジーンに対する反応は劇的だった。
──なじーんさま? なじーんさまですか?
彼がひと声かけた瞬間に飛び上がる様子を見せた靄に安堵する。解決の糸口が見えてきた。やはり靄の正体はネクロデアの民だったのだ。
「ああ、そうだ。君はこんなところでどうしたんだ?」
──あの、おとうさんが、ばるでぃすたが、ぞぶりすがくるからここにかくれてなさいって。おとうさんがむかえにくるのをまってたんだけど、ここ、さむくて、でもぼくずっとまってて
ゾブリスがネクロデアを滅ぼしてから一体どれだけの月日が経ったか。右手が無意識に胸を押さえた。しょんぼりと俯いた靄がひと回り小さくなる。ふとそこに小さな男の子の姿が重なった。
「君を王都に連れていったら、家の場所はわかるか? 君の父上はそこにいるかもしれない」
──もちろんです!つれていってくれるの?
「ああ、君さえ良ければ」
凍てついた心を溶かすナジーンの声音は慈愛に満ちている。その声をぼんやり聞きながら、在りし日の王都ネクロデアを、その玉座に王として悠然と腰掛ける彼の幻影を見た。
幼子を長い距離歩かせるのも忍びないので抱き上げて連れていければ良かったのだが、一抱えもある氷を抱いたような重量と冷たさにこちらの方が倒れそうになり、申し訳ないが断念した。できるだけ幼子に歩調を合わせ、ナジーンが度々気遣う声をかける。歩くうちに靄の衣を捨てて完全な幼児の姿を獲得した彼は、意外にもしっかりとした足取りで、ぬかるむネクロデアの道を弱音も吐かずについてきた。
王都の門をくぐると同時に、弾かれたように幼子が走り出す。全速力で追わねば大人の足でも見失いかねないほどの速さに、やはりあの子は既にこの世界に生きる命ではないのだと、奥歯を噛む。散々その証拠を見てきたはずなのに、諦めが悪い。道具屋の看板が軒先で朽ちている廃墟へ彼が飛び込むのを確認し、後に続いた。
果たして、道具屋のカウンターの奥で「それ」は、洞窟の中にいた幼子と同じようにうずくまっていた。淀んだ黒の靄が渦を巻き身悶え不安定に形を変える様は、苦しんでいるようにも見える。
──おとうさん!
幼子が、父を呼ぶ。
無邪気な、父を信頼しきった声音にほんの刹那、奇跡を信じてしまった。
身の毛もよだつような咆哮を上げ伸び上がった靄が、我が子を飲み込もうと襲いかかる。得物を構える暇もなく幼子の前に飛び出した。
飲まれる、と身を強ばらせた次の瞬間、魔剣アストロンから、正確にはその柄を飾る宝玉から膨大な量の光が溢れ出た。命の光に全身を焼かれた靄が苦鳴を上げ、身を仰け反らせる。ナジーンの意思により、常ならばファラザードの王を唯一の主と戴く魔剣を振り上げた。持ち運ぶだけでもずっしりと存在感のある刀身が、今は羽のように軽い。
「この子は自らの力でネクロデアを覆う呪いを振り払った。貴殿が父だと言うのならば、その矜恃にて呪いを断ち切ってみせよ!」
亡国の王の一喝に、自らも鼓舞される。振り下ろした切先より闇が四散した。
飛び散る闇が光にとって代わり、やがてその中心からひとりの偉丈夫が幼子を抱き上げ立ち上がった。
──やっと、会えた。
言葉にならない思念と、万感の思いが伝わってくる。
長い時を越え再開を果たした親子は、一度こちらに頭を下げ、光に溶けて、消えた。
がくんと膝が折れて地面に手のひらを付いた。大量に出血したときのように頭がくらくらする。
「すまない、無理をさせたな」
取り落とした魔剣から労われて苦く笑う。
「緊急事態でしたから」
彼に肉体を明け渡していなければ、きっとあらゆるタイミングが間に合わなかった。痺れてきた腕で身体を支えているのも辛くなってきたので、その場で大の字になる。長年積もった埃が派手に舞ってまた少し笑った。間に合って良かった。
「少し休んでいっていいですか?」
「無論だ」
動けるようになる頃には日も暮れているだろうが、ここは彼の国だ。多少油断したところで取り返しのつかないことにはならないだろう。
瞼がひどく重い。
「この壁のひび割れは随分前からあった、気になってはいたが。水が滲み出すほどなら早急に修理を手配させよう。……こっちのは覚えがないな、かなり最近のものか?」
結局素人が持ち帰った情報には、城主の記憶との答え合わせに使える、といった程度の価値しかない。せっかく骨を折ったのに、というほどのことでもないけれど。浜辺に出てからは本当にただの散歩だったし。
城の見取り図から顔を上げたユシュカと目が合った。
「何だその顔は」
「この情報、本当に必要でした?」
素朴な疑問をそのまま口にしたら、ファラザード王は一瞬の間を置いて破顔した。
「当たり前だろう。俺が持っているのは所詮過去の記録だ。情報は一旦得たらそこで終わりではない。変わりゆく状況に合わせ、本来ならば日々更新されるべきものだ」
「そういうものですか」
「そうだ。お前も王なのだから、その辺りきちんと胸に刻んでおけ」
もう一度顔を見合わせた。しばし沈黙が流れる。
「こら、大魔王」
小突かれてやっと合点した。
「ああ」
「ああ、じゃない。全く……」
大魔王城を一歩出たらすっぽ抜けてしまう程度の肩書だ、と言ったらまたしこたまユシュカに叱られるだろう。沈黙は金だ。ここに至ってまで大魔王の肩書に対してのわだかまりを拭いきれない自身の執念深さだけはもうちょっとどうにかしたい、とは思う。
「で、ネクロデアの方はどうだった」
見取り図の角を揃えて畳み、ユシュカが口火を切った。こちらが本題、の切り出し方だ。話を聞いたときには毛ほども興味のない顔をしておきながら、結局気にしているのが彼らしい。
短い報告を、先ほどとはうってかわって腕を組み神妙な顔で聞いている。
「……そうか。ご苦労だった」
できるだけ事実のみの伝達になるよう言葉を選んだが、やはり話している内に私情が混じり、暗い顔を見せてしまったかもしれない。うつむきかけた顎を捕らえられ、視線だけで先を促された。
「……あの場所、何度も通ってたんです。頼まれごととか、他にも色々あって」
でも気付けなかった。その間もあの子は苦しんでいたのに。
「それは二百年ネクロデアを放っておいている俺たちへの嫌味か?」
「──っ」
厳しい眼差しに射抜かれて、意図がどうだろうと彼を傷つけてしまったことを思い知る。やはり沈黙は金だ。ユシュカもナジーンも、かの国を放っておけたわけがない。俺など歯牙にもかからないほど遥かな時間気にかけていて、それでも呪いと怨嗟に満ちた土地の浄化には至れなかったのだ。浅はかな己を恨むのも、もう何度目だろう。
間もなく手が離れ、彼は表情を緩めた。
「自他の境界を引くのだけは不得手なままだな」
「余計なお世話です」
「”これ”は俺たちの、……いや、あいつの問題だ」
ユシュカが私室の下へ降りる階段へと視線を移す。日没後に辿り着いた城内は、激しいスコールがもたらした数々の情報で混迷を極めていたが、徹夜覚悟の臣下たちへあっさりと「今日は終わりだ。寝ぼけた頭で弾いた適当な分析を出されてもこちらが困る」と退出の命を出し、何か言いたげなナジーンをも目配せで黙らせたのはこの魔王だった。
「寝ろと言ったのに、今頃ナジーンのやつ徹夜でネクロデア復興計画を練っているに違いないぞ。二百年もの間及び腰だったのにな」
揶揄する口調とは裏腹に、その目は唯一無二の親友を信頼し、また誇りに思う輝きに満ちていた。
いずれネクロデアは復興する。そしてそこに自分の入り込む余地はない。
……と、迷走しかけた思考に慌ててストップを掛けた。
これじゃまるで嫉妬しているみたいじゃないか。
「まあ、ネクロデアはすべてあいつに任せておけ。お前にとっては益々余計なお世話かもしれんが、お前はお前の夢を追え。少しは自分の幸せを考えろ」
説教じみた後半の物言いはちっとも頭に染み込んでこない。まだ俺は許されるほどのものをどこにも返せていない。
いつの間にか膝に置いた両手の爪の先を見つめていた。そこに失望混じりの声が落ちてくる。
「わからないか」
全部被害妄想だったらいいのに、と思う心と、一度失望されてしまえば期待されずに済むという思いが錯綜して投げ出したくなる。
いつだって自分自身のことを考えるのは苦手だ。
「さて、大魔王よ」
こっちの胸の内も知らずに、いつも人をからかってくるときに使う芝居がかった口調でユシュカはテーブルに両手をついて身を乗り出してきた。人ひとりの体重を支えるようには作られていない華奢なテーブルの脚が不穏な悲鳴を上げる。
「この度の働きに見合う褒美についてだ。何を望む?」
欲しいものなんて何もなかった。夢も。幸せも。ただ、今このときだけは彼が自分を見てくれたら、と思った。
「あなたの、一晩を」
直截な返答にさすがの彼も瞠目する。
「そんなものでいいのか? 俺に得しかないが」
「褒美ってあなたが損しないとダメなんですか?」
「それもそうだな」
床に膝をつき、ファラザードの魔王が頭を垂れる。
「我が君の仰せのままに」
手の甲に口づけを受けながら、今彼の顔を見てしまったらなんだか泣いてしまいそうなので、ずっとこのままでもいいかと思い直した。俺を見てほしいと願ったそばからこの有り様なんだから、今日の自分は本当にわけがわからない。
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