5.5後の暗いの

 バルディスタ要塞に滅ぼされて以来、定住する者の絶えて久しいゲルヘナを乾いた風が渡る。魔界三国に囲まれ、国同士の諍いが起こる度あっという間に戦場となるこの辺りをわざわざ根城にしようという物好きはそうそういない。が、住人を失ったままの岩屋群は、盗賊山賊の類を始めとした脛に傷持つ者たちが一時の隠れ家とするには実に都合が良かった。下手に罪人へ追手をかけて他国へ逃げられれば、逃げ込まれた側の国が間違いなくそれを口実に大軍を寄越してくる。先の大戦まで三国の関係は一触即発よりは多少まし、といった程度のものだった。そういった事情で住むものがなくとも何百年もこの岩穴の廃屋は朽ちることなく、今も雨風をしのぐには十分な機能を保っていた。
 大魔王が姿を消したのは祝勝会の翌日のことだった。アビスジュエルが私室に残されていたことからアストルティアへ渡った可能性は低いが、どうにも見つからないとなれば、既にあちら側に引き上げた勇者姫一行と連絡を取り合う必要も出てくるかもしれない、とあいつが所在不明であるとの一報が入ったときはそう思ったのだ。宴の折確かに、魔界とアストルティアの未来のためにお前をこのままここに縛り付けておくことはできないといった趣旨の発言はしたが、まさか別れの挨拶もなく旅立つような薄情者だとは思わなかった。しかし、部屋を荒らされた形跡、侵入者、不審者の目撃情報、共に無し。おまけにその日城門に立っていたジャンドガンが、旅支度を整えた本人が普通に、出ます、と言い置き出ていくのを見送ったと言い出す始末で。事件性はどう考えても皆無の上、大魔王は薄情者であるという証拠だけが着実に積み上がっていく状況にはただ溜息だけが出た。「一箇所だけ心当たりを探してくる」と、姿形は変わっても有能さは変わらない副官に留守を頼んで足を運んだのが、あいつと初めて口をきいたこの地だった。別に放っておいても良い案件なのは重々承知であるにもかかわらず、深入りしたのはひとえに個人的な憤り故だった。そう俺は単純に、怒っていた。運命を共にしたとも言って差し支えない相手にすら何の断りもなく出ていくなど不義理にも程がある、と説教のひとつもくれてやって一言謝らせないと気が済まない。
 先ほど見つけた真新しい足跡が、岩屋のうちの一軒に吸い込まれるように消えている。足跡を消しておく知恵もない粗忽者が、この先にいる。
 足跡の先の扉を押し開けると、遮るもののなくなった西日が深く室内に差し込み中にいる人物を克明に照らし出す。部屋にひとつきりの椅子に腰掛け、石造りのテーブルに広げた地図を眺めていた大魔王が顔を上げた。容赦ない日差しに目を細めた後、悪さを咎められた子どものように「やっぱりここじゃダメだったか」と呟く。
「お前な、別に出ていくのを止めはしないが、旅立つなら旅立つと一言」
「ユシュカ」
 その声の静かさは、説教の体でぶちまけた個人的な不満を止めるのに十分な力を持っていた。
「死に場所を探しているんです。どこか人目につかない、迷惑にならなそうな良い場所、知りませんか?」
 初めて入った町で宿の場所を尋ねるような気軽さだった。お陰様で言葉の意味を飲み込むまでに足元の影が少々伸びた。
「なぜだ」
 質問を質問で返す愚かさを知りながらそれ以外に返事のしようがなかった。交渉術の完全なる敗北だ。室内に踏み入り、無骨な石テーブルに手をついた。逃げ道を塞いでやった筈なのに、平然としている相手にこちらの方が追い詰められている気になる。
「アストルティアでも魔界でも、俺の役目は終わったからです」
 確信に満ちた口調でわけのわからないことを言い出すので苛立ちが募る。
「それとお前が自ら命を絶たなければならない理由がどう繋がる?」
「元々エテーネが燃えた日に終えるべき命でした。この体も、命も仮初のもの。運命から与えられた役割を果たすまでその日を延ばしてもらっていただけにすぎない。それに俺は、人に許された領分を逸脱しすぎました。このままのうのうと生きていれば、いずれ自分こそが世界を脅かす綻びになる」
 声同様、その表情も静かなものだった。むしろそこにはほんの僅かではあるが、待ち望んだものが与えられる喜びに似た気配さえ含まれていた。昨日までのこいつと目の前のこいつは本当に同一人物なのだろうか。俺は、今までこいつの何を見ていた。こんなことになるのなら格好つけて今後はお前の自由になどと言わず、魔界に縛り付けてしまった方が良かったではないか。
「お前が世界を滅ぼすわけがなかろう」
「ユシュカ」
 声色に切実さが混じって真っ直ぐに胸を衝く。
「俺の望みは、ずっと世界が平和に続いていくことだけです」
 もう、それだけなんです、と言い足してひたむきに見上げてくる視線から一瞬でも逃げ出したいと思った自分に愕然とした。話は通じない、だがこいつをむざむざ死なせるわけにもいかない。どうする。
 逡巡の末、口を開く。
「いい場所を知っている。だが今日はもう遅い、明日案内してやろう」
 単なる時間稼ぎへの返答は、花がこぼれるような笑み。次の瞬間椅子から崩れ落ちた大魔王に肝を冷やす。
「──おい!」
 慌てて抱え込んだ身体の頼りない質量に、連れていかれたかと焦ったが、呼吸を確かめて安堵の息を吐いた。
 今夜の内に何とかこの頑固者を説得する術を捻り出さねばならないのに、ふと気付けばこいつの運命を司る神をぶん殴りにいく方法を真面目に考え込んでいたりして、なかなか思考が前に進もうとしない。

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