【恩返しその①】特段の事情なく結婚している5.5後

 確かにこの辺りの空の色は、あいつの故郷のそれによく似ている。
 木々の密度が高い森の奥では淡い木漏れ日が薄ら白くちらつくばかりだが、湖に近付くにつれ開けてくるベルヴァインの空は抜けるような青へと変わる。足元の緑は朝露を蓄えてしとどに濡れ、辺りは瑞々しく力強い土の匂いに満ちている。水辺に足を踏み入れ、砂漠とは違って温度を伴わない直射日光に目を細めた。湖岸を見渡すまでもなく、ぽつんと座って釣り糸を垂らしている人影に行き当たる。
 放蕩者の当代大魔王は執務に飽くと城を抜け出し、魔界のあちらこちらに出没してはやっぱり何らかの騒動に巻き込まれ人助けしていたり、人里離れてこんな風にぼんやりしていたりする。放っておいてもカーロウの堪忍袋の緒が切れる前には帰ってくるのだが、気が向けば血の契約の副産物である精神感応を使って居場所を尋ね、迎えにいってやることもあった。今日もその気が向いた方の日だった。
 足音を隠さずに歩み寄り隣に座り込んでも大魔王は目立った反応を見せない。いつもこんなものだ。しばらくそのまま二人、水面をゆらゆら漂っているウキを眺める。ふと傍らのバケツの中に目を向けると、そこには清らかな湖の水だけが静かに空を映していた。
「いつもこうじゃないですからね」
 こちらが何か言う前から言い訳じみたことをぼそりと呟くので笑ってしまう。
「知っている」
 こいつの気晴らしに付き合うのは初めてではない。釣果についてはまちまちだったが、ゼロの日は珍しいように思う。
「何だか警戒されているみたいで」
 尚も言葉を連ねてやっと言い訳がましい自分に気付いたか、話途中で気まずそうに口を噤んだ。湖面に向けたままの横顔を眺める。色素も肉も薄い頬が簡単に血の色を通すことは随分前から知っていた。頭の大きさに比べると大ぶりな耳朶もやはり薄く柔らかい。こいつの身体は一事が万事そんな調子で、高い位置で結った髪の伸びっぱなしの毛先が触れるうなじも、すっきりと伸びた背筋も、そこから生える透き通った色の無い一対の羽も、けぶるような淡い色使いの装束に似つかわしいたおやかな手足も、作りだけならばただただ繊細でつまりは、頼りない、の一言に尽きる。それがひとたび戦場に出れば、自分の背丈以上の大鎌を悠々と振るい並み居る凶悪な魔物たちを叩き伏せてみせるものだから、出会った当初は我ながらとんだ拾い物をしたものだと自惚れたものだった。今となってはとんだ拾い物どころの話ではないが。こいつの「そういうものにみえなさ」は稀有と言っていい水準にあるし、だからこそ、その落差にうっかり惹き付けられたのだろう。
 尖った耳の先をちょいと摘んでみる。
「何です?」
「己が伴侶の美しさを愛でていただけだが」
「……ヘンなものでも食べました?」
 うんざりと吐き捨ててみせた瞬間沈黙を保っていたウキが沈んだので、たちまち大魔王はそちらにかかりきりになった。

 激闘の跡を物語るように湖の水はうっすら濁っている。
「湖の底にあんな怪物がいるとはな」
「ここの主でしょうね」
 竿ごと持っていかれた大魔王が悲しそうに水底を覗き込んだ。その辺でやめておけ。落ちるぞ。
「高かったんですよあの竿もルアーも」
 思い切って買ったばかりだったのに。
 未練たらたらにぶつくさぼやいている襟首を念の為に捕まえておく。
 釣り道具くらい俺がいくらでも買ってやるからあまり嘆くな、何だったら部下に湖の底をさらわせてヌシとやらを大魔王に献上させてやってもいい等々慰めてみたら、「あなたは釣りをわかってない」から始まる長い長い説教を正座で聞く羽目になった。釣り老師って何だ。師匠よりデキるやつなのか。
「とにかく、見てるだけじゃなくて一度釣ってみてください。今度はあなたの分も道具を用意しておきますから」
 何故か俺の方が釣竿を買ってもらう話になったところで説教は締めくくられた。こころなしか満足げな大魔王が立ち上がる。
「もういいのか」
「あれしか持ってきてなかったんですよ、今日は。……カーロウ怒ってました?」
「俺が見た時は呆れていた。謁見希望の者が予約の列をなしてるそうだ」
「謁見の時間苦手なんです。いつも途中で眠くなってしまう」
「眠気覚ましの世間話くらいならいつでも付き合ってやるが」
 眉間をとん、とつついてやるとちょうどそこに皺が寄った。そういえば俺から話しかけるばかりで、こいつが精神感応で連絡を取ってきたことはない気がする。それどころかこちらから話を振った場合も返ってきて一言二言だ。相変わらず愛想のない伴侶にはふと不満も顔を出す。
「疲れるんですよ、あれ」
 一言嫌味でも言ってやろうと口を開きかけたところに返ってきたのは、意外な答えだった。
「疲れる?」
「ユシュカは違うんですか」
 信じられないものを見る顔をされたが驚いているのはこちらだって同じだ。
「全く。こうして喋っているのと大差ない。どれくらいの負荷だ」
「……マダンテ一回分くらい、です」
「そいつはまた……、今まで気軽に話しかけて悪かったな」
 まさかそんなところに個人差と認識の齟齬が潜んでいるとは。単なる向き不向きの問題か、契約上の主従の立場の違いのせいか。
 謝罪を聞いた大魔王が慌てたように言い足す。
「いえそれは別にいいんです、連絡あったら今日は迎えにきてくれるんだなって嬉しいです、し……」
 語尾を不明瞭に飲み込んだが、大意は伝わってしまっている。突然かわいいことを言い出すお前の方こそ頭でも打っただろう。本人もいらぬことを言ったと思うのか、口元を押さえてそっぽを向いたが、頬の赤みは全く隠せていない。屈み込んで邪魔な手のひらを退けた後、やっと辿り着いた唇に自分のものを軽く落とす。
「ちょっとまだ、距離感がつかめてなくて、あの、今のは完全に間違えました……」
「何も間違ってない。帰るぞ」
 弁明のような訳のわからない何事かをごにょごにょ言ってるのを切り捨て、ついでに耳元で「勃った」と申告してやったら、きょとんとした後今度は照れるどころかくつくつ笑い出し「城に着くまでもつんですか」と揶揄されたので、ご期待に応えてその場で押し倒してやろうかと思った。

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